6月のお講(令和元年) レポート
2019年 06月 30日
6月28日(金)。
28日講(お講)が勤まりました。
養泉寺では、親鸞聖人の御命日であるこの28日に、1年の半分(6回)お講が勤まります。
1月は初お講、6月、7月、8月とお講、10月は報恩講、11月はおあさじ会。
その他の月も、特に案内などしていませんが、内々でお勤めしています。
また、28日は精進ということで、肉や魚は食べないということをずっと続けています(忘れてしまう時やそう出来ない時もありますが…)。
とにかく浄土真宗のお寺が浄土真宗のお寺として在ることを証明する一番基本になる行事ですので、大切に勤めるよう心掛けています。
この日は、初めて来て下さった方もおられました。
世代が変わった方もおられます。
お参りの方は決して多くありませんが、こればかりはこつこつと地道に勤める他ない行事だと思っています。
そんなこの日のお講。
初めての方もおられたので正信偈の読み方やページについて説明。
その後、お勤めに入っていきました。
ゆっくりとお勤めし、御書さまを住職が拝読。
その後、当院、住職と、30分ずついつも通りにお話しました。
私は、最近の御朱印ブームの背景やテレビ等での報道から思ったことをきっかけに、なぜお寺に足を運ぶのかということを自分も含め確認しました。
お寺は一言で言うと「自分に遇う場所」
お参りする人が仏さまのお姿を拝む、ということに終わってしまうことが多いと思いますが、それだけではなく、仏さまから拝まれている自分自身の姿に気が付いていくというところにお寺へ行く、特に浄土真宗の寺院へ足を運ぶ意味があるのだろうと思います。
また、27日に一番下の娘が入院したことを通して感じたことを話し、そこで出会った同じ病室の少女の姿から考えさせられたこと。
自分が日頃、いかに自分中心の眼で生きているか、またそのことを疑問にも持たずに当たり前に生活していたか。
そんなことを話し、金子大榮先生の「人と生まれた悲しみを知らないものは人と生まれた喜びを知らない」という法語を紹介しました。
住職は、「法」という一文字の漢字から、みのりとは何か?という話をしました。
法とは、さんずいに去ると書きます。
さんずいは「水」、去るは「その場から移動する」という意味があるそうです。
それは、水が移動するということ、それは高いところから低いところへ流れていくということ。
つまり「当たり前の道理」という意味があるということ。
「法を聞く」とは「当たり前のことを聞く」ということなんだと話しました。
人が生まれ老いていき、病になり死んでいく。
生老病死の道理から逃れられないということを聞いていく。
しかし、そこから逃れよう逃れようとするところに、見つめ直すべき私たちの生き方があるのではないかということでした。
実際に御門徒さんとのやり取りであった体験を通して、新興宗教との決定的な違いについてお話しました。
病気が治る、痛みが取れる。
お念仏にはそのようなはたらきがないからこそ真実であると頷ける強さがあるのだと、再確認させてもらいました。
法話の後は、皆で協力して大広間に会場を設定し、お斎の時間となりました。
三色おにぎりと、具だくさんけんちん汁、えごと漬け物で、さっぱりしつつもボリュームもある美味しい手作りのお斎でした。
ごちそうさまをした後も、しばらく色々な話に花が咲いていたようで、何とも楽しいお斎の時間となりました。
人が集まると会話が生まれます。
会話の中でまた色々なことを思ったり、考えたり、発見したりすることができます。
スマホやタブレットと睨めっこする時間が多くなる時代だからこそ、会話の大切さを再確認させられます。
6月が終わります。
今年もあっという間に半年が終わることになります。
様々な事件、災害が、今年も相変わらず起こっています。
元号が令和になり、新しい時代が来ても、変わらない私たちの日常に、いよいよ仏教の教えが必要になってくるような気がします。
次の行事は7月5日。
法友交流会が行われます。
申込みの締め切りが明日までですので、どうぞお気軽に参加していただきたいと思っています。
暑い夏になりそうです。
どうぞ皆さんお体大切になさって下さいね。
by yosenji
| 2019-06-30 00:00
| 養泉寺の雰囲気を知る