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寺泊 養泉寺

養泉寺は文禄3(1594)年、信濃国(長野県)水内郡長沼村の歓喜踊躍山浄興寺の僧浄明が開いたお寺です。宗派は真宗大谷派。山号は光澤山。「つやさん」と読みます。


by yosenji
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その全て阿弥陀さまの説法

12月4日(火)。
弥彦村麓の広福寺さまにて、真宗教団連合新潟県支部寺院研修会が行われました。
御講師に武田定光先生をお迎えし、「もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった」という講題でお話をいただきました。

当日は、普段なかなか顔を合わせることの少ない他派の方々ともお会いでき、面白かったです。
仏光寺派の若手は会場寺院が同派という関係もあり、スタッフとしても多く参加されていました。
実は仏光寺派の若手に知り合いが多いので、一気に皆に会えて嬉しかったです(笑)

武田先生のお話は以前にもお聞きしたことがあるのですが、今回もエッジの効いた先生らしいお話でとても面白かったです。
ご自分で「私は変人ですから…」と切り出してからは武田節全開!!
ちゃっかり本も買ってしまいました。

以下、個人的に印象に残った言葉です。

・この世界は如来回向で溢れている
・発展途上の求道者、お釈迦様、法然、親鸞…
・お経は、それに感動した弟子たちの歴史
・本当に生きているのか、死ぬとは何なのか、誰も知らない
・仏教は全人類の課題
・生まれた途端に、死が発生する
・どこから来てどこへ行く?-生きることの意味を問わぬ限り本当の安心はない
・答えは自分にしか出せない
・死は本能的に知らない、教育されないと分からない
・”本当”によって目が覚まされていくのが真宗である
・意味を求めるのは一つの病、そこから目覚めさせてくれるのが阿弥陀さま
・結婚式には嘘がある、お葬式には真実がある
・「寺なんて嫌!」と思わせたものは何だろう?
・人間は、他人のためには泣けない生き物である
・真宗は煩悩を拝める宗教、瞋り、腹立ち、嫉みは、私を教えて下さる教え
・お寺や教団は信心の畑である、お寺にいる人間はそれを耕せ
・自分が行うことの意味の回復
・親鸞聖人が師と仰いだ法然と法然の教学とは違う
・こちらには一つも信じることが出来ない、信じる必要はない
・阿弥陀さまが自分の前で謝ってくれている
・まさか!ということに出遇わないと真宗には縁がない
・全部その通り、ご覧の通り、その全て阿弥陀さまの説法
・人間だけが幻想を持つ
・世界が一つ、というと価値観が縛られる
・一人一世界、これに目覚めると、比べるということから解放される
・仏智疑惑の和讃が大切、全部阿弥陀さまに取られて、こちらの肩の荷が下りる
・資本主義の洗脳から覚めよう
・”役に立たないものは去れ!”という者の中に、自分がいた
・新聞の三面記事は私の三部経(ある方の言葉)
・煩悩具足の凡夫、とは自分では自己弁護か言い訳にしか使えない、よって仏説の言葉である
・呼ばれないと自分はない
・いつでも、どこでも、だれでも―親鸞聖人の教学
(※あくまで個人的なメモなので、先生の言ったことと異なる可能性があります)

私たちの固定観念を問う、もっと言えば壊そうとする先生の熱意が感じられるお話でした。
真っ暗になった境内を後にして、家路につきました。

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by yosenji | 2018-12-07 13:00 | 養泉寺の周りにも目を向ける | Comments(0)