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寺泊 養泉寺

養泉寺は文禄3(1594)年、信濃国(長野県)水内郡長沼村の歓喜踊躍山浄興寺の僧浄明が開いたお寺です。宗派は真宗大谷派。山号は光澤山。「つやさん」と読みます。


by yosenji
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春彼岸会(平成30年) レポート

3月21日(水祝)。
春彼岸会・永代経法要が勤まりました。
今回は3人の方が初参式を受けてくれ、子どもの声のするお参りとなりました。

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初参式とは、初参りともいい、養泉寺ではこれまでも密かに呼びかけていましたが、改めていいものだと気付きました。
大人が子どもの手を引っ張ってお寺へ行くことは最近ありませんが、子どもが大人の手を引っ張ってお寺へ行くことはしばしばみられます。
そんな宗教心の塊のような子どもたちにしっかりと本気でエネルギーをかけてはたらきかけていくことが、私は大切だと思っています。
初参式に限らず、児童教化ということを養泉寺ではこれからどうしていくのかを、見つめ直す一日となりました。

初参式では、誕生児念珠(本山からの記念品)、子ども用勤行本、記念写真の三点を記念品としてお渡しすることにしています。
誕生児念珠の中には、本山からこんなメッセージが書かれています。


お父さんとお母さんへ

お子さんの誕生おめでとうございます。待ちのぞんでいたお二人のお喜びはいかばかりかと、こころからお祝い申し上げます。
生まれてきたお子さんとの出遇いによって、私たちは親と呼ばれ、親としての子どもにかける願いが湧き上がるばかりに起こることを思うとき、お子さんによって与えられるものの大きさと、親にならしめられたことの不思議さに深い感慨をおぼえます。
親としてはお子さんの将来に精いっぱいの夢を描きますが、その思いが強ければ強いほど、ともすればお子さん自身にあるいのちの尊厳をふみにじることがあります。それは親の愛情にまちがいはないという過信と、自分の子だからと思う親のわがままであります。また今日の時代は、動植物に及ぶ自然環境の破壊、教育の混乱、核時代の不安など多くの問題をかかえ、地球上の全てのいのちが危機に立たされているといっても過言ではありません。本当に自信をもってお子さんに手わたせる世界を私たちはもっているのだろうかと疑問が生じます。
どうか新たないのちの出発を迎えたお子さんの誕生を大切に受けとめて、本当におめでとうと言える親になっていただきたいと思うことです。
いのちの根源を親鸞聖人は「ナムアミダブツ」とお念仏することだと教えてくださいました。これは自分中心のわがままな思いに立とうとする立場を捨てて、真理に頷く人間になろうという呼びかけです。
お子さんとともに、人生に与えられている深い意味を尋ねて歩みはじめていただきたいと存じます。


子どもの誕生は親としての歩みのスタートに他ならないこと。
子も親も育てられ合いながら、お念仏に導かれていくことが願われていること。
そんなことを教えられます。
この日初参式を受けた子どもたちとその親たち、また私たちも一緒になって歩んでいかなければならないなぁと思います。

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湯気で曇った台所。
その頃、当番の皆さんによってお斎の調理、準備が進められていました。
当番には、出て下さる方は若い方でも積極的に出て下さいます。
料理そのものが楽しい、興味深いという方もおられると思います。

妻も母も数日前からお斎のメニューはどうしようかといろいろ考えていました。
喜んで食べていただくことをイメージしながら。

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お勤めの後は法話。
皆さん真剣に耳を傾けて下さいました。

<当院法話概略>
「死ぬいのちを生きる」

私は実は一年以上、「寺子屋」を行っています。とは言っても、何人もの子どもたちに勉強を教えているわけではなく、たった一人です。家が工場をしている知り合いのお子さんとそのお母さんから、「落ち着いて宿題や勉強をするためにお寺に行ってもいいですか?」と言われたのがきっかけで、それから月2回のペースで日にちを決めています。私も同じ空間で過ごし、姿を見守って終わる日もあれば、分からないことを聞かれ、教えることもあります。最近ではちょっと休憩する時間を設け、お茶を飲みながら、小学校で流行っていることや今考えていることなどを話してくれることがあります。最初は緊張している様子でしたが、最近はとても嬉しそうに話してくれるので私も話を聞くことを楽しみにしています。
先日、そんな話の中でその子がこんなことを聞いてきました。「人は死んだらやっぱり塩で清めるんですか?」という質問でした。何かそういう場面に出会ったのだろうと思うのです。でも何かが心に引っかかって言葉となって出た問いだと感じました。私は、「そういう考え方もあるよね。一緒に考えようか。」と言って、話を続けました。皆さんはどう思いますか?「やっぱり清め塩は必要だ」と思う方は?(手が上がらない)では、その必要はないと思う方は?(ほぼ全員の手が上がる)…そうですか。浄土真宗では清め塩は用いません。皆さんさすがよくご存知ですね。でもどうしてですか?
それは、浄土真宗では死も含めていのちの姿だからです。清め塩は、死を「穢れ」と捉えることに起因する考え方です。繰り返しますが、そういう考え方もありますので良いとか悪いとかの話ではありません。死を、不都合なもの、どこかへ追いやりたいもの、と考える気持ちはよく分かりますよね。でも、今ここにいる私たちも今は生きていますが、死ぬ身です。死を抱えているんですね。そんな死ぬいのちをどう生きていくのか。そんな問いをもらうことが大事ではないでしょうか。
「死」なんて言うと、「何をネガティブな…」と感じる方もいると思いますが、死をしっかりと見つめて生きることはとても大切だと思います。死はネガティブな話ではなくリアルな話です。特に今日お参りしている様な子どもたちにしっかりと教えていくことは、親の大きな責任です。養泉寺では今年に入ってから6件の葬儀がありました。納骨に同行することもありますが、若い方や小さいお子さんがいたら必ず一緒に行ってもらい、お骨に触れて、その場を体験してもらう様にしています。死は言葉では伝えられません。死は亡くなった方自身が一生で一度だけ出来るいのちの授業です。悲しいことを通して、自分のいのちに目が向く。これは老若男女問わず、誰もが感じることが出来ることです。このいのちって何なんだろうという、問いが大切だと思います。
時代は答えで溢れています。「こうやって生きていくことが正解」「こうならなければいけない」逆に、「こうなったらもうおしまい」「だからこそ今これをやろう」というように、生き方に答えを突き付けていきます。それを拠り所としながら、自分の願いを叶え、条件や状況を整えようと思って生きています。それが叶わなければそのことに苦しみ悩み、悲しみます。それはやめることは出来ません。なぜならば、人間だからです。生きているからです。親鸞聖人の捉え方は、人間=煩悩、です。
人間の思いを拠り所として生きるのか。それとも、その生き方をやめられない人間を教え照らし続けてくれる仏さまの願いを拠り所として生きるのか。私たちは問いを通して考えることが出来ます。自分自身のあり方を見直す歩みが出来るのです。今日初参式を迎えた皆さん、またお参りして下さった皆さんも一緒になって、仏さまの願いを拠り所とした生活をしていきたいものですね。

<住職法話概略>
「見えないものを感じる力」

皆さんにクイズを出します。炬燵の上にみかんが12個あります。それを3人の子どもで「平等に」分けるとしたら、どうしたらいいでしょうか?
答えは出ませんでしょうか。ある方はこう言いましたよ。「はい、4個ずつ分ければいいです。」と。それもそうですね。でもみかんといっても、大きなみかんもあれば小さなみかんもある、酸っぱいみかんもあれば甘いみかんもある。それを「平等に」分けるとしたら、という問題なんです。そうしたらね、あるお母さんがこの間勢いよく手を上げました。「簡単です。ミキサーにかけてジュースにすれば平等に分けられます。」と言ったんですね。実は、この答えが欲しかったんです。
私たちは物事を考える時、どうしても目に見えるものや数字をまずは思い浮かべてしまいます。でも、目に見えない所を感じていく、ということが、実はとても大切なことなんじゃないかと思うんですね。
今年の冬は厳しい冬でしたね。大雪に大風。あるお宅ではこんな話になりました。「いやぁ~、昨晩の風はごうぎな風でした。」と言うんですが、どうして分かるんでしょうね。その方は言うんですね。「だって夜中に戸がドンドンバタバタ鳴るんだもの、外を見れば木が大きく揺れているし、海を見れば大波が立っている。だからすごい風でしたて。」ということです。でもよく考えてみると、私たちは風そのものを見ているわけではありません。生活の中で無意識に目に見えないものを感じて過ごしているんですね。
私には孫がいますが、孫がよく絵本を持ってきます。そこには苺やバナナの絵が描いてあるんです。それを指差してね、「じぃじ、食べよう。」と言うんですね。「何言ってるんだ!こんなの絵だから食べられるわけねぇねっか!」なんてことは言わないですよね。「そうだね食べよう。あむ(食べる真似)、むしゃむしゃむしゃ…あぁ、おいしい。」と言うとね、孫も喜んで「むしゃむしゃむしゃ…あぁ、おいしい!」と言って食べる真似をしてくれます。こんなに小さな子どもでも、目に見えないものを感じる力があるんだなぁ、と、つくづく感じます。
大正時代の方で、宇野正一さんという方がいます。この方は、幼少時代に両親を亡くし、じいちゃんばあちゃんに育てられたそうです。そんな環境の中、じいちゃんは何とかこの孫に「大切なこと」を教えたいと思って、それはそれは一生懸命に孫育てをしたそうです。そんなじいちゃんの口癖は、「いいか、正一や、食べ物さまには仏がござる。ちゃんと残さず食べれよ。米粒さまには仏がござる。大切に食べるんだよ。」というものでした。ですから正一少年はいつからか、「米粒の中には仏さまがいなさるんだ。」と思う様になりました。
正一少年の小学校に初めて顕微鏡が入った時のことです。先生が、「誰かこの顕微鏡で見たいものがある人はいるか?」と言った時、正一少年は勢いよく手を上げました。そして「先生、米粒が見てみたいです。」と言いました。先生に許してもらい、正一少年はワクワクしながら顕微鏡で米粒を覗き込みました。「仏さまはどういうお顔をしているんだろう。どんなお姿をしているんだろう。」と思いながら見てみたんですが、何も見えません。「先生、うちのじいちゃん、米粒の中に仏さまがいると言っていたんです。」と正一少年が先生に言うと、先生は大笑い。先生は「正一君、米粒はな、タンパク質と水分とでんぷんと脂肪で出来ているんだよ。じいちゃんは君に嘘ついているんだよ。」と言いました。
正一少年はショックでショックで、家に急いで帰るとじいちゃんを怒鳴りつけました。「じいちゃんの嘘つき!米粒の中に仏さまなんかいないじゃないか!」と。じいちゃんはびっくりして言いました。「正一や、こんなことが分からないのか!米粒の中には仏さまがいなさるんだ!」と。そして、仏壇に向かって手を合わせて、おいおいと泣いたそうです。その時のじいちゃんの震える肩が、正一少年は忘れられないそうです。
正一少年が大人になり、じいちゃんの年齢に近付いた時、ようやくその意味が分かったそうです。お金を出せば米粒はいくらでも買える。でも、その一粒の米粒を作るのにどれほどの苦労がかかっているのか。そんな「見えないもの」の大切さを分かる人間になってほしい。そう願っていたんだと。
私たちも目に見えるものばかりに振り回されてしまいながら生活していますが、目に見えないものを感じながら聞法生活をしていきたいものだなぁと、改めて感じることです。今日はお参りしていただいて、ありがとうございました。

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お斎風景。
何と3分の1が子どもというなかなか見ない風景でした(笑)

<春彼岸お斎メニュー>
・麩と長芋とぶなしめじの煮物
・えごと青菜の酢味噌和え
・野菜のかき揚げ
・れんこんのごまマヨネーズ和え
・山クラゲのきんぴら
・ご飯
・豆腐と葱の味噌汁
・コーヒーゼリー
・高橋農産の草餅
・漬け物

コーヒーゼリーは、甘さ控え目大人の味で好評でした。
彩りも豊かで春を感じられるメニューとなりました。

若い方、お子さんへの呼びかけも本格的にしていきたいと思います。
3月頭の全門徒さんへの発送物の中に、「お寺の行事にお子さんを連れて来て下さい」という思いを一枚入れました。
それがきっかけかどうか、この日おばあちゃんと一緒にお参りに来てくれたKちゃん、一緒に来てくれたおばあちゃん、本当にありがとうございました。

墓地に行くと、真新しい綺麗なお花がたくさん見られました。
4月になると花まつりがあります。
皆さんのご参加、お参りをお待ちしています。

色々な方に元気をもらった、春彼岸・永代経法要でした。

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by yosenji | 2018-03-25 15:00 | 養泉寺の雰囲気を知る | Comments(0)