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寺泊 養泉寺

養泉寺は文禄3(1594)年、信濃国(長野県)水内郡長沼村の歓喜踊躍山浄興寺の僧浄明が開いたお寺です。 宗派は真宗大谷派。山号は光澤山。「つやさん」と読みます。


by yosenji
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凡夫の身に帰る

3月12日(月)。
新潟市の金寶寺さまにて、三条教区の推進員・育成員共学研修会が開催されました。
新潟地域を中心とした50名程の熱心な御門徒さん(推進員の皆さん)と、私も含めた寺院方(育成員)とが一緒になって先生のお話を聞き、また語り合う中で、自分自身の歩みを確かめました。

今回のテーマは『凡夫の身に帰る―共に生きる大地―』ということで、東京教区東京2組の蓮光寺御住職、本多雅人先生をお迎えし、お話をいただきました。
凡夫の身に帰る、ということは浄土真宗ではよくいうことですが、言葉として知っていても実際にどういうことか、となると一気に分からなくなります。
凡夫の身に帰る、ということに限らず、これは浄土真宗に関わること全てがそうかも知れません。
理解することに追われると、実感することから遠ざかっていく。
お話の後の座談会でも、様々なことが話題になりましたが、「どうすればいいのか?」「○○とはどういう意味なのか、分かりやすく教えて欲しい」という言葉が多く聞かれました。

詰まるところ、「答え」を求めて止まないのが人間の姿だと思います。
そして、当然そこには私自身も含まれます。
私も、「これ」という答えを求めて止みません。
しかし、仏教の救いとはその延長線上にあるものではないのでしょう。
その延長線上には私の考える救いなどあるはずもない、とはっきりと知らされること。
そしてそのままの存在の尊さを自覚することこそが、仏教の救いであると示していただきました。

お話の中で、本山から出ている同朋新聞のインタビュー記事について触れられており、帰宅後すぐに読み返しました。
「人間といういのちの相」という記事のインタビュアーを、本多先生がされていて、その対談のお相手の金森俊朗さんという方のお言葉をご紹介いただきました。

現代は答えがすでにあって、現場というものがない。人間がどう生きているかを問わないのです。
生きているのではなく、生かされていることに気づくというところには、死と向き合い、生きることの意味を問うということがある。(「同朋新聞」2月号より)

今、子どもたちの中に、何で関係性の自覚がないかというと、「できたか」「できないか」という結果だけが注目されているからだと思うんです。
しかし本当は、「何でできるようになったの」という、プロセスの方に着目し、関係性の豊かさを刻むことの方が重要なんです。(「同朋新聞」3月号より)

答えを求める私たちの姿そのものを「問う」ということ。
そして、価値観を決めている私という存在の姿こそが、「実は凡夫であった」と知らされること。
凡夫の身に帰る、とはどういうことなのか?
その答えは、自分を問うということの中にしかないのだと思いました。

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同朋新聞(3月号)の表紙は可愛らしい二人の女の子が鉄棒をしている写真が使われています。
紙面で、「さかあがり」という詩が採り上げられていることにリンクしているのだと思いますが、私には自分の娘二人の近い将来に見えます。

月参りの際、いつもなら何となく渡しているこの同朋新聞を、最近は「ぜひここだけは読んで下さい!」と言って渡しています。
小さなお子さんがおられるお宅は、特に。
明日からもそうしたいと思っています。

ともかく、大きな課題ときっかけをいただいた研修会でした。
本多雅人先生をはじめ、会場の金寶寺さまや参加者の皆さん、スタッフの皆さんに感謝いたします!
どうもありがとうございました。

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by yosenji | 2018-03-15 15:01 | 養泉寺以外の行事予定 | Comments(0)